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【アラベスク】  第9章 蜜蜂



第2節 水と油 [16]




 何の悩みもなく、何の裏表もない。そんな彼女からのメールだったから、電話をしてしまった。

「あのシャンプー、十月から値上げするみたいだけど、知ってる?」

 ツバサが姑息な策を実行するとは思えなかったが、彼女からのメールがこっちから電話をさせる為の口実だったのだろうくらいの事は、美鶴にも半ばわかっていた。だから、シャンプーをネタに脅すつもりか? なんて言ってしまった。

「美鶴、怒ってる? だってさ、こっちだって心配したんだよ。いきなり自宅謹慎なんて、ビックリするじゃない」

 電話越しに聞いたツバサの声には、美鶴の現状を嘲笑(あざわら)うような含みはなかった。きっと唐渓の生徒のほどんどが美鶴の謹慎を喜んでいるのだろうが、少なくともツバサはそのような生徒ではないようだ。
 八つ当たりみたいな言い方をしてしまっただろうか? 悪かったかな。
 いつのまにか、手の中で携帯を(もてあそ)ぶ。
 どれだけ注意深くメールや着歴を確認しても、霞流からの連絡はなかった。留守電に繋がってしまったが、美鶴からの着歴は霞流の携帯には残っているはずだ。
 なぜ?
 不安が胸の内に広がる。
 私、無視されてるのかな?
 どうして? やっぱり、迷惑をかけたから怒ってるのかな?
 この携帯をめぐって聡や瑠駆真からも追及されたんだろうし、澤村優輝の件に関しては、巻き込んだとまでは言わずとも、少なからず手間を掛けさせてしまった。霞流さんには厄介な事この上ないよな。それに――――
 聡と瑠駆真から聞いた、美鶴救出までに至る経緯。霞流は、聡から京都という言葉を聞くまで、携帯の存在すら忘れていたと言う。
 まさか自分の携帯の存在を忘れるはずもないだろうから、それは美鶴の持っている携帯を意味するのだろう。
 美鶴に携帯を貸し与えた事すら、忘れていた。
 忘れられていたんだ。
 胸の奥に、ズキリと鋭利な刺激が走る。
 あの日以来、毎日毎日肌身離さず持ち歩いていた。夜には必ず充電し、朝になれば確認し、どんな時でも忘れた事はなかったのに。
 薄型の携帯が、掌に重い。その重さが、手渡された時の戸惑いを思い出させる。

「万が一離ればなれにでもなったなら、これで連絡してください」

 耳元で囁かれた時には、本当に心臓が飛び出るかと思った。
 ぼんやりと部屋を見渡す。
 品の良いカーテンの添えられた窓の向こうは、目にも涼しげな秋の空。窓を開ければ爽やかな秋風が吹き込むのだろう。
 秋風――――
 確か、"秋"を"飽き"とかけて、男女の冷めてしまった関係を表す言葉だと聞いたことがある。
 この携帯を渡された頃は、暑さ絶頂の真夏だった。蒸し暑い京都の夏を、だが快適な車で霞流と移動し、浴衣を来た夜の川辺は心地よかった。
 耳底を流れる水の音。お似合いですね、と声を掛けてくれた霞流さんの笑顔。背に流れる薄茶色の髪。
 あの時、霞流さんは確かにこちらを見てくれていた。はずだ。
 飽き風。
 私のことなど、もうどうでもいいのだろうか? そもそも私になど、大した関心も持っていなかったのだろうか?
「だぁぁぁぁっ!」
 何でこんなにグチャグチャ悩まなくちゃならないんだよっ!
 奇声と共にベッドに突っ伏した途端、来訪者を告げる音。
 あぁ 来たな
 のっそりと身を起こしながら、どう追い返してやろうかと思案しつつ、美鶴は寝室を出た。





 早々に追い返すつもりで出迎えたのだが、それは聡にだって瑠駆真にだってわかりきっていた事。
 できるならマンション入り口での立ち話で終わらせたい。そんな美鶴の思惑だってお見通し。だから美鶴が入り口から出てきた途端、聡はすばやく奥に侵入した。
「あっ ちょっと」
 叫ぼうとして、管理人室の人間と目が合う。
 騒いだらまた厄介な事になりそう。
 などと躊躇しているうちに聡はさっさとエレベーターへ。
「あぁ これ、鍵と暗証番号がいるんだっけ?」
 早く動かしてくれよ などとシレっと振り返る聡に口を曲げ、だが結局は家まで招いてしまった。
「何? その袋? コンビニ?」
 聡の左手にはパンパンのビニール袋。
「おかまいなく」
 とはぐらかし、部屋に入った途端取り出したのはお菓子やらジュースやら。見れば瑠駆真の右手からも、同じようなものが姿を現す。
「ちょっとっ」
 出てくる出てくる食料の山に、美鶴はさすがに驚きを隠せない。
「どういうつもりよ?」
 咎める声にもニヤリと笑い、ペットボトルの蓋をあけながらソファーに腰をおろす聡。
「長期戦対策」
「はぁ?」
「これだけありゃ、メシの心配は必要ないだろ?」







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